ホーム > Kaz Lab について > 研究部門 > 哲学科

研究部門 哲学科

 

構造主義的類似性の哲学による勉強

  1.試行錯誤の過程で使われる言葉
  2.入試成績と生涯業績
  3.ものが分かっているとは
  4.入学試験問題の作り方
  5.学者になるまでの勉強の仕方
  6.日本の教育の現状
  7.進学校における勉強
  8.体系化された科学を導入した日本
  9.西洋の学問の仕方
 10.基礎を勉強しただけで東京大学に合格できる
 11.平易な言葉による高度な抽象化と類似性の探究
 12.構造主義的類似性の哲学による勉強



1. 試行錯誤の過程で使われる言葉


 構造主義的類似性の哲学の元となった「基礎哲学」は、中学校、高等学校時代における,学校の勉強とは全く関係のない、独自の勉強と、私が大学に入学するために受験勉強をしたとき、全く勉強ができなかった状態から、東京大学医学部の入学試験における合格可能性80%以上に相当する成績が取れるまでになった,勉強をする過程で、生み出されたものである。構造主義的類似性の哲学は、この「基礎哲学」に、大学からの知見を付け加えて、整理したものである。私の、思想、哲学の中核は、あくまでも、この「基礎哲学」にある事を強調しておきたい。「基礎哲学」は、大学入学前に、すでに、確立されているのである。

 この構造主義的類似性の哲学を通して、日本における勉強、学問の仕方について見ていこうと思う。

 科学は、一見、混沌とした多種多様で複雑に見える世界に秩序を見いだし、その秩序において成り立つ原理や法則を抽出していくものである。そして、科学は、この基本的な原理や法則から全宇宙を説明して行こうとするものである。現在、科学は長い歴史を持っており、その成果を元にした既存の体系を持っている。その体系内では、原理や法則が導き出された際の経緯や試行錯誤などの詳細は整理され、体系内で定義された概念と考え方によって整然と理論が組み立てられている。言葉を言い換えるならば、体系内では、基本的な事柄、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)、そして、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる考え方によって議論が行われているのである。
 ここで、基本的な事柄とは、体系内で定義されている基本的な概念で、歴史学で言うならば、律令制度、労役などを指し、数学で言うならば、対数関数、直線などを指し、物理学で言うならば、質量、速度などを指す。基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)とは、原理や法則、あるいは、公式や公式のようなものを指す。また、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる考え方は、数学で言うと、「一次近似をする」などである。これは、与えられた数式をテーラー展開して一次の項まで取る作業を示している。
 構造主義的類似性の哲学では、体系内で使われる定義された概念や考え方ではなく、一般に使われる平易な言葉による、平易で基礎的な見方、平易で基礎的な概念と平易で基礎的な考え方を使って考えていこうとするものである。この平易で基礎的な見方、平易で基礎的な概念、そして、平易で基礎的な考え方は、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)を導く過程で必要とされるものである。
 基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)は、本来は、原理や法則、あるいは、公式や公式のようなものの発見者が、試行錯誤の上、この基礎的な見方、概念や考え方を用い組み合わせて導き出したものである。この基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)は、一旦確立されてしまうと、この関係を導くのに使われた基礎的な見方、概念や考え方は、整理され、体系内で定義された概念や考え方に取って代わられ、忘れ去られてしまうのである。

 専門の分野で行われる議論は、このような基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)の幾つかを使いながら進められていく。問題は、この基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)の間をつなぐ考え方である。基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)の間をつなぐ考え方は、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずるような考え方である。この基本的な事柄間の基本的な関係(関係)に準ずる考え方を継いで継いで議論を進めていく。

 この基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる考え方は、下位の幾つかの基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる考え方を組み合わせて説明されたものである。この下位の基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる考え方は、元々は基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)を導き出すのに必要とされる基礎的な考え方を用いて説明できるものである。しかし、専門的な議論を進めていく上で、ここでも原理や法則などと同じように成立過程で用いられていたこのような基礎的な概念や基礎的な考え方は整理され、専門内で定義された概念と考え方によって取って代わられてしまうのである。

 原理や法則、あるいは、議論に使う考え方など、すなわち、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)、あるいは、この関係(考え方)に準ずる考え方は、両方とも、より下位の基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる考え方によって説明されることになるのである。すなわち、専門の議論では、整理された形での、専門内で厳密に定義された概念と考え方が用いられる。
 そして、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)も基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる考え方も、導出するに伴う試行錯誤の過程は忘れ去られ、結論を持ってほとんど知識として扱われるのである。

 構造主義的類似性の哲学では、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)、および、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる関係(考え方)も含めて、を「モジュール化された考え方」と呼んでいる。

 物事を考える上で、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずるような考え方を用いて考えるのと、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)を導くのに必要とされる基礎的な考え方を用いて考えるのとでは、物事に対する理解の深さが極めて異なるのである。既存の世界を扱う上では、基礎的な考え方を用いて考える方が、ほとんどを基礎的なところから考えていくので、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずるような考え方を用いて考えていくことに比べて多くの時間がかかる。それ以外は、ほとんど差が現れない。しかし、対象が未知の世界を扱うことになると、基礎的な考え方を用いる方の理解の度合いが深いので、大きな成果を上げる蓋然性が高いのである。しかし、このことは、日本の教育界の常識や学者たちの思い込みによる常識により、全く気が付かれていないのである。
 しかし、「考え方のモジュール化」は至る所で進められている。物理学の分野などおいては、一般の平易な言葉による説明は煩雑で難しくなる。数式を使った表現を用いると、表現は簡潔になる。このことを「思考の節約」と呼んでいる。このように、物理学の分野だけではなくあらゆる分野で、基礎的なところから考えるのではなく、「考え方のモジュール化」による更なる「考え方のモジュール化」が行われて、それによって理解がなされているのである。


2. 入試成績と生涯業績


 1979年の朝日新聞の記事に、京都大学の全学部の卒業生を対象としたある調査についての記事が載っていた。京都大学の入学試験における各科目の成績と、卒業後に上げた生涯における業績との関係を調査したものである。
 京都大学の卒業生であるから、その卒業生は、学問の世界に進むものが大半であるが、それ以外、実業界に進むものもいる。いずれの分野に進んだにしても、それぞれの分野でどの程度良い仕事をしたか、すなわち、どの位良い業績を残したかと言うことと、入学試験における成績との相関関係を調べたのである。

 結果は以下の通りである。京都大学の卒業生の中で、生涯の間で良い業績を残したことと一番相関が高かったのは国語の成績。その次に相関が高かったのは社会。英語は、相関があるともないとも言えなかったそうである。ほとんど相関がなかったのが理科で、全く相関がなかったのが数学だったそうである。

 一般的には、数学ができる人のことを頭が良いと見る傾向があるが、この調査からは、このような見方は否定されている。この調査の結果は、京都大学の全学部に対して行われたものであるから、理系、文系によらない結果である。であるから、例えば、数学科、あるいは、物理学科において、入学試験における成績で、数学や物理の成績が良くて入学した学生よりも、国語や社会の成績が良くて入学した学生の方が、生涯的には良い業積が残せている、ということが言えるのである。

 国語の成績が良いと言うことは、ことばを使う能力が高いと言うことである。高等学校で習う国語の内容は、哲学に関するものや文明論など高度で専門的な文章が対象となる。このような文章には、抽象度の高い語句が多く含まれている。しかし、高等学校では哲学など人文科学系の専門の学問は教えられていない。従って、これらの議論をする上では、専門的な概念や考え方を用いることを要求されているわけではない。これらの文章は、平易な言葉、すなわち、平易で基礎的な概念と平易で基礎的な考え方によって読み解くことを求められているのである。
 この世の中の多様な世界のことを、平易で基礎的な概念と平易で基礎的な考え方を用い、整理し、秩序づけて論ずることができることは考える力があると言うことを意味すると思われる。
 加えて、受験勉強において、国語は、入試問題を技術的に解くということはほとんどされていない科目である。古文、漢文は除いて、限られた勉強時間の中で、現代国語を特に勉強する児童生徒は多くないであろう。それだけに、国語の成績は、個人の言語能力によるところが大きいのであり、実力がそのまま現れるのである。
 また、社会は、複雑な歴史的事実関係の中から、議論に必要な事項を選び出し、それらに伴う関係を歴史的な流れに沿って秩序立てて論ずることが必要であり、ここでもやはり、平易で基礎的な概念と平易で基礎的な考え方による高度な思考能力を要求されるものと思われる。
 このように、学問の分野でも実業の世界でも、高い業績を上げるには、平易な言葉による考える力が必要なのである。


3. ものが分かっているとは


 構造主義的類似性の哲学は、常に、事象を、基礎的なところから見、一から基礎的な考えを用いて事象を再構成(認識)し、その上で更に事象を基礎的なところから見、そして基礎的な考えを用いて考えていくのである。  これに反して、日本の社会でも、あるいは、科学の分野においても、常識、公式、あるいは、公式的なこと、言葉を換えて言うならば、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)や基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる考え方、を元に、事象が見られ、考えられている。社会においても科学の分野においても、「ものが分かっている」ということを、常識や常識的なことを良く心得ていたり、公式や公式的なことをよく知っていることをさして言う場合が多い。物事を基礎的なところから見、考えることではなく、常識的なことや公式的なことをよく知っていることが重視されるのである。一般には、「考える」事よりも「知っている」事に重きが置かれている。根本的なところからものを言い始めたり、下手に自分の考えを述べたりすると、「分かっていない」、「理屈っぽい」とか「変わり者」として嫌われる原因にもなりかねない。


4. 入学試験問題の作り方


 学校教育の主な目的の一つは、入学試験に合格することである。しかし、教えなければならないことの分量と授業時間の関係から入学試験に合格するまでの学力を学校では十分付けることができていないのが現状である。したがって、入学試験問題が十分解けるようになるために、多くの児童生徒は塾や予備校に通い、あるいは、家庭教師について入学試験問題を解くための勉強を習わなければならない。このことが当然のこととして行われているのが日本の教育界の現状である。このことは、本当に正常なことと言えるのであろうか。

 小学校、中学校、高等学校では、学校で勉強する内容は学習指導要領で決められている。従って、入学試験では、教科書に書かれている内容のうち、どれくらいのことを覚え、そして、どれくらい教わった考え方を使えるようになっているかを本来調べることになっている。私の知人にある医科大学で入学試験問題を作る委員をしていた人がいた。その人は、「入学試験問題を作るときは、市販されている教科書をすべて購入し、そのすべてを読んで、それらに書かれている内容を知っていれば解ける問題を作る。」と言っていた。このことは、入学試験を受けるときは、教科書さえ勉強していれば入学試験問題は解けるようになっている、と言うことである。これは、東京大学についても例外ではない。
 それなのに、教科書を中心に勉強をしている学校だけの勉強では足らず、塾や予備校に通ったり、あるいは、家庭教師についたりして勉強しているのである。
 学校の先生も、塾や予備校の先生も、そして、家庭教師の先生も、教科書以外に、入学試験問題の解き方を教えていると言うことは、みんな、勉強が分かっていないと言うことである。と言うよりも、日本で勉強のことに携わっている人のほとんどが、基礎中の基礎からものを考えることよりも、常識のようになっている、あるいは、公式のようになっている考え方を組み合わせて導き出した常識や公式のようなものを使って勉強をしたり、教えていたりしているのである。


5. 学者になるまでの勉強の仕方


 未知の世界を対象とした場合に有効な学問の仕方と、既存の世界を対象とした場合に有効な勉強の仕方とは、本来、同じでなければならない。しかし、実際には、既存の世界にしか有効ではない勉強の仕方をしているのである。既存の世界を対象とした場合には、記憶に頼った従来の勉強方法が、記憶に頼った勉強方法とは意識されずに、正当な勉強法だと思われている。しかし、未知の世界を対象とする学問の方法は、記憶に頼った方法ではだめなのである。日本の学者のほとんどがこのことが分かっていないのである。そのため、この未知の世界を対象に研究する立場になるまでに、今まで分かっている既存の体系をどのようにして理解しているかについては問わないのである。ほとんどの日本の学者にとって、勉強の仕方に選択肢はないのである。この既存の体系をいかに理解しているかは試験によって調べられ、点数が良ければ理解できていると判断されるのである。この試験に対しては、ほとんどのものが、記憶を頼りにした勉強方法とは意識しないで記憶を頼りにした勉強方法で臨むのである。このことは、小学校、中学校、高等学校、大学学部、大学院での入試でも全く同じである。であるから、小学校における勉強の仕方、中学校における勉強の仕方、高等学校における勉強の仕方、大学学部における勉強の仕方も大学院における勉強の仕方も皆同じになっているのである。これだけにとどまらず、日本の学者達の学問に対する理解の仕方も同じようなものになっているのである。


6. 日本の教育の現状


 学校で習う教科書には、基本的な事柄、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)を導くのに必要とされる基礎的な考え方、そして、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)を使った簡単な応用が書かれている。

 入学試験問題では、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)を使う応用問題が出題されることがほとんどである。従って、進学校以外の一般の学校では、基本的な事柄と基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)を重点的に教えているのである。この後に、基本的な事柄間の基本的な関係の簡単な応用を教えている。これで教科書に関する授業はほとんど終わることになる。これだけ教えることで与えられた授業時間はほぼ終わってしまうからである。残されたわずかの時間で、実際の入試問題の解き方を教えているのが現状である。学校での勉強で、基本的な事柄間の基本的な関係の簡単な応用まで習った段階では、私の経験からも実際の入試問題は解けないのが普通である。従って、入試問題が解けるようになるには、別に入学試験問題を解く解き方を習わなければならない。入学試験に合格するための対策は、塾、予備校、あるいは、家庭教師に頼ることになるのである。
 大学の入試問題の作り方から考えれば、学校の授業で教科書の内容を教えられているのであるから、学校の勉強だけで入学試験問題は解けなければおかしいのである。しかし、学校の勉強だけでは大学の入学試験には合格するだけの学力はつかないのは事実である。
 それは、どうしてであろうか。

 大学入試問題の大半の解き方は、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)を節目とし、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)を使う節目と節目の間を幾つかの考え方をつないで解いていくものである。従って、入学試験問題を解いていく上で、基本的な事柄と基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)は覚えておかなければ話にならない。従って、学校では、これらの基本的な事柄と基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)を重点的に教えるのである。しかも、これらの事柄も基本的な関係(考え方)もほとんど知識として教えるのである。また、この幾つかの考え方は、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずるような考え方である。これらの考え方は、他のより下位にあたる基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずるような考え方を組み合わせて導き出したものである。であるから、これらの考え方は少し考えたくらいではすぐ頭に思い付かない考え方である場合も多い。これらの考え方の中には、学校でも、また、塾や予備校、あるいは家庭教師における指導においても当然のこととして扱われることがあるくらいのものもある。同様に、当然のこととして省略された考え方で示されることもある。これらの考え方は、参考書などでは説明なしに書かれている場合も多い。また、これらの考え方は、出題された問題の文脈の中で必要とされる考え方である。そして、これらの考え方は、他の考え方との関係や他の問題の時どのように使えるかなどと言うことは一切説明されない。なぜならば、これらの考え方は、この問題の文脈の中でのみ使える考え方だからである。従って、これらの考え方は、こういう問題のこういうときに使う考え方だ、と言うふうに独立した知識として覚えなければならないのである。これらの考え方は、似たような問題に使えるのみである。
 以上のように、入試問題を解くに当たっては、基本的な事柄と基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)を覚えておくことはもとより、問題を解くときに必要とされる一連の固有な考え方、すなわち、一連の基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる考え方を、問題のタイプ毎にセットで覚えていくのである。

 実際に出題される入学試験問題は、多種多様、様々なタイプの問題が出題され、どのタイプの問題が出題されるかは分からない。従って、入学試験で出題される問題を解くには、出題された問題のタイプの考え方を知っていなければならないので、入学試験で良い点を取るには、なるべく多くのタイプの問題を解く考え方を知っている必要がある。なぜならば、なるべく多くのタイプの問題に必要な問題の考え方を知っていれば、入学試験問題に出題されたタイプの問題と同じタイプの問題の解き方を知っていて問題が解ける確率が高くなるからである。
 日本の学校教育の現状では、基本的な事柄、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)と基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)の間の簡単な応用を教えるので時間がいっぱいで、実際の入学試験問題を解くのに必要な、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)と基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる考え方のセットについては、少ししか教えることができない。そのため、学校の授業では、入学試験に対して、十分な準備をすることができないのである。

 塾や予備校、あるいは、家庭教師においても、学校と教える問題の解き方は同じで、問題のタイプ毎の基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)と基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる考え方のセットを解説するだけである。それを、児童生徒は覚えるのである。全くの記憶による教育、すなわち、詰め込み教育である。


7.進学校における勉強


 この確率を高める方法を強力に推し進めているのが進学校と言われている学校である。
 ある進学校では、高等学校の入学試験合格発表の日から、一学期の授業が始まるまでの間に、高等学校3年間で習うことになっている教科書をすべて自習しておくような宿題が出るそうである。
 また、私が勉強を見たある進学校の生徒によると、教科書の勉強は生徒に任せているそうである。学校では、たとえば数学の場合、特殊な置き換えをしなければ解けない問題や教科書に書かれている内容を使えば解ける問題でも、やはり特殊な置き換えをさせて問題を解かせていた。
 このように、進学校では、高等学校一年生の時から卒業するまで、膨大な数のありとあらゆるタイプの基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)を使う応用問題を解かせて、どんなタイプの問題にも対処ができるように入学試験に対して準備させているのである。
 一般の高等学校の生徒にとっては、学校で教えられる内容を記憶するだけでも大変なのではないだろうか。新聞によれば、全国の高等学校の生徒の中で、学校で教えられることの内容をすべて「理解できている」生徒は、全体の3割であるとのことである。この「理解できている」ということばの正確な意味は分からないが、要するに、学校で教えられている事柄と考え方をすべて記憶している生徒は3割しかいないと言うことであろう。このことからも、進学校の生徒は、皆、驚異的な記憶力を持っている、と言える。

 このように、日本では、記憶に全面的に頼った教育がされているのである。


8.体系化された科学を導入した日本


 このような方法で勉強をさせている原因は、日本の科学の歴史にあると思われる。

 日本は、明治時代に西洋文明を取り入れ、それに伴って、西洋科学の研究も始めたわけである。平成の現代にいたるまでに、日本人のノーベル賞受賞者も数を重ねてはいる。しかし、ノーベル賞の受賞対象になっている研究は、必ずしも画期的な創造性や独創性を示すものに与えられているとは言い難い。西洋の科学の歴史の中で、西洋の学者達が残してきた業績に比べると、日本の学者達が残している業績は、創造性や独創性の面で見劣りすることは否めない。その原因は、体系内で定義された概念や考え方を使って、整理された形によって既存の体系を理解していることであると私は考えている。

 日本は、西洋の文明を途中から取り入れた。日本の科学の歴史は、ギリシャ時代以前から長く続く進んだ西洋の科学に追いつき追い越すために、まず、西洋科学の明治時代以前までの成果を理解することから始めたのである。そこでは、できあがった既存の体系を理解することになる。既存の体系においては、内容は整理され、原理や法則を導くことだけではなく、体系内の議論は、体系内で確立され、定義された見方、概念と考え方によってなされるのである。であるから、この既存の体系を理解するときも、体系内で定義された見方、概念と考え方によって行われる。すなわち、体系内の議論は、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)と基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる考え方を用いることによって行われると言うことである。
 このことは、前に述べた通り、日本の教育において入学試験を解くために、問題のタイプ毎に解き方を覚えるのと同様に、議論の内容をほぼ丸覚えしなければならないと言うことである。

 加えて、大学の入学試験を受ける際の勉強の仕方において、問題のタイプ毎に解き方を覚え、出題された問題を解くのに当てはまる解き方を見つけ、その覚えていた解き方に従って問題を解いた場合、問題の本質的な内容が理解できていなくても、問題は機械的に解けてしまうのである。このことは、中学校、高等学校、大学と大学院の入学試験問題に共通のことである。このように、日本における試験では、問題の本質を理解していて問題を解いているのか全くの記憶によって機械的に問題を解いているのか区別が付かないのである。このことに、日本の学者たちは気が付いていないのである。むしろ、記憶によって機械的に「考える」学生の方を「できる学生」として扱う傾向にある位である。

 このような記憶による理解方法は、既存の体系を対象とした場合は、基本的な考え方を用いた理解方法とは大差なく、専門分野を理解できていると思い込み、日本のほとんどの学者たちは、この理解方法を記憶による考え方とは考えずに当然の理解方法として意識せずに行っている。しかし、日本人の学者による、書物に記載されるような創造的で独創性のある研究成果はほとんど出ていないのが現状である。このような記憶による理解は、表面的には分かっているように見えるが、事の本質は理解できていないと言うのが本当のところなのである。
   勉強の本質を本当に理解できている、大学入学試験の勉強の場合ならば、教科書に書かれた内容を完全に理解していれば、皆、東京大学医学部の合格圏内に入る成績が取れているはずである。教員になっている人たちの学力層は、大学入学試験では、真ん中ぐらいの成績を取っている人たちがほとんどである。とても勉強の本質が分かっているとは言えないのである。勉強の本質が理解できていないものが、いくら勉強を教えても、勉強の本質は教えることができないのは当たり前である。

9.西洋の学問の仕方


 西洋の人たちは、この世の中のこと、すなわち、この宇宙のことが全く分からなかった状態の時から、平易で基礎的な見方、概念、と考え方を用いて、複雑で多様なこの世界を、分析し、整理し、秩序を見いだし、そこに原理や法則を発見してきた。このことは、例えば、物理学の歴史において、過去の物理学者達がどのように発見発明をしてきたかを見れば明らかである。
 このように、西洋の人たちは、物事を見、考えるときには、平易で基礎的な見方、概念と考え方を用いて行ってきたのである。
 これは、構造主義的類似性の哲学と考えを一にするものである。
 西洋の専門書は、一部の例外を除いて、分野にかかわらず非常に丁寧な記述がされているものが多いことは周知の事実である。このような面にも、西洋の人々が、ものを見、考えるときの基本的なスタンスがうかがわれる。

 以上のように、西洋の長い科学の歴史を見ると、混沌とした複雑多様な世界を分析し、整理し、秩序を見いだし、そして、そこから原理や法則を発見するには、平易で基礎的な見方、平易で基礎的な概念と平易で基礎的な考え方、すなわち、平易な言葉によらなければならないことが分かる。このことが大事なのである。
 このことは、京都大学における調査において、平易な言葉を使う能力が高いものの方が良い業績を残せている結果と同じである。


10.基礎を勉強しただけで東京大学に合格できる


 私は、大学受験の時、教科書を中心とする基礎的な勉強だけで、東京大学医学部の合格圏に入れる成績を残すことができた。東京大学の医学部は、日本一偏差値が高い大学学部である。東京大学を受験する学生というと、高等学校で習うレベルを遙かに超える勉強をしていると思われているし、また、実際そのようである。また、一般的にも、予備校の授業などでは、入学試験問題を解くのに、大学で習うレベルのことを教え、その知識を使って解くことを教えているのも事実である。
 しかし、私は、基礎的な勉強だけで極めて良い成績を残すことができた。
 私も、教科書に書かれている、基本的な事柄と基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)は覚えた。しかしその他は、基礎的な勉強をしただけであり、問題のタイプ毎の解き方を覚えることは一切しなかった。また、その必要はなかった。それでも入試問題は十分解けたのである。どうして問題が解けたかというと、教科書に書かれている、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)を導くのに必要とされる基礎的な考え方を徹底的に勉強したからである。
 前にも述べた通り、日本の従来の教育による受験勉強においては、入学試験を受けるに当たっては、問題を解くのに必要な、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)と基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる考え方はほとんど丸覚えをしなければならなかった。
 基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)は教科書には、眞に丁寧にその導き方が書かれている。この基本的な関係(考え方)を導く過程に示された基礎的な考え方は、その分野分野で必要とされる基礎的なものの考え方を含み、平易は言葉で、すなわち、平易で基礎的な見方、平易で基礎的な概念と平易で基礎的な考え方によって説明されているのである。従って、この基礎的な考え方を使えば、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる考え方を知らなくても、問題を考えていくことができるのである。基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)は、この基礎的な考え方から導き出すのが大変であり、時間がかかる。加えて、この基本的な関係(考え方)は分野分野を考える上で大切なことなので、この関係(考え方)そのものと導き出し方は覚えなければならない。しかし、この基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる考え方は、代わりに基礎的な考え方を組み合わせて問題を解くことができるので覚える必要はない。また、前述の通り、この基礎的な考え方には、他の基礎的な考え方との関係も含まれているので、どのように議論を進めていけば良いかと言うことも含んでいるのである。であるから、入試問題を解くとき、ある基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)に準ずる考え方から次の段階に必要な基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)がなんであるかと言うことも、この基礎的な考え方には含まれている。よって、日本の従来の教育による入学試験問題を解くのに必要な考え方は、すべて、教科書に書かれている基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)を導くのに必要とされる基礎的な考え方を知っていれば、すべて導き出すことができるのである。

 このように、小学校、中学校、高等学校で習う学問の基礎における、基本的な事柄間の基本的な関係(考え方)を導くのに必要な基礎的な考え方は、学問の基礎分野における既存の世界をすべて説明することができる。
 このことは、高等学校で習う学問の基礎だけではなく、大学での教育、研究が行われている学問の世界でも成り立つことである。


11.平易な言葉による高度な抽象化と類似性の探究


 ここで、構造主義的類似性の哲学の特徴の一つである高度な抽象化をして物事を見ていくことにする。高度な抽象化を行いながら各分野を見ていくと、分野は同じであるが異なる領域において、類似的な構造を持つ場合があることが分かる。また、分野が異なっても、類似の構造を持つことが分かる。
 同じ分野間にせよ、異なる分野間にせよ、この類似の構造を見つけ出すことにより、二つの系列の知識を一つのものとして覚えれば良く、記憶の助けともなる。
 これは未知の研究の分野におけることではあるが、同じ分野間、あるいは、異なる分野間にかかわらず、対応する二つの類似する構造において、一方の構造にしか位置しない事柄や概念とそれに伴う関係がある場合、もう一方の構造のそれに対応する、実際には存在しない事柄や概念とそれに伴う関係を考えることで、新たな発見や新たな理論が構築される場合がある。
 これら類似性のある構造を探るときに用いる、高度の抽象化は、平易な言葉、すなわち、平易で基礎的な見方、平易で基礎的な概念、そして、平易で基礎的な考え方を持って行う。それぞれの分野において使われる概念や考え方は、個々の体系内で、厳密に定義されたものを使っている。従って、それぞれの概念や考え方は、専門的に限定された限られた意味や考え方しか持っていない。
 これに対して、平易で基礎的な見方、平易で基礎的な概念、そして、平易で基礎的な考え方は、それぞれ多様な見方、概念、そして、考え方を含んでいるのである。
  言葉と言うものは、通常、辞書に書いてある意味を持つものであると考えられている。しかし、ある場合には、この通常表す意味と全く正反対の意味を持つこともある。また、別の場合には、これらの意味とは全く別の意味を持つこともあるのである。

 ある仲の良い夫婦がいた。その夫はビールとたばこが大好きであった。ところが突然夫が亡くなってしまった。残された妻は、亡き夫の墓前にいつもビールとたばこを供えたという。一般的には、「ビール」という言葉は、お酒の一種であるアルコール飲料を意味し、「たばこ」という言葉は、喫煙によって肺がんを引き起こす可能性が高まる嗜好品の一種という意味をもつ。しかし、残されたこの妻にとっては、「ビール」という言葉も「たばこ」という言葉も、「彼女の亡き夫」と言う言葉と同じ意味を持つのである。

 このように、一般的に使われる言葉は、普通に使われる意味だけではなく、場合によっては、あらゆるすべての意味を含むものなのである。原理や法則を導き出す過程における、ある段階の議論を、平易な言葉を使って、すなわち、平易な基礎的な見方、平易な基礎的な概念、そして、平易で基礎的な考え方を組み合わせて行うと、意味と意味の兼ね合いにより、この次の段階における議論に必要な考え方との関係を相互に示すだけでなく、他の議論に必要な考え方との関係を相互に示す意味合いをも持つのである。このような性質を持つ平易な言葉によって、すなわち、平易で基礎的な見方、平易で基礎的な概念、そして、平易で基礎的な考え方を用いて、専門分野における原理や法則を導くと、その過程に現れた、平易で基礎的な見方、平易で基礎的な概念、そして、平易で基礎的な考え方を用いれば、その専門分野における議論に必要な考え方、そして、この考え方と考え方の繋がりをすべて導き出すことができるのである。
 このような平易な言葉によって物事を考え、高度の抽象化をして類似性の構造を探っていくと、概念と概念は関係性(考え方)を持って構造内に位置づけられ、そして、束ねられ、更に平易な言葉による思考と高度の抽象化を重ねて行くと、知識は、立体的な構造を持つに至り、単なる記憶ではない、有機的な理解ができるようになるのである。


12.構造主義的類似性の哲学による勉強


 以上のような方法によって学問や、学問に通じる物事をすることは、高度なことである。平易な言葉で物事を考えていくことは誰でもできることである。しかし、事柄を平易な言葉で説明することは誰でもできることではない。構造主義的類似性の哲学によって、物事を深く基礎の基礎から理解していなければならない。
 小学生、中学生、あるいは、高校生がこのような方法を身につけることは難しいであろう。しかし、構造主義的類似性の哲学によって物事を深く理解したものが、平易な言葉で説明して導いてあげれば、教科書に書かれている内容を完全に近い形で理解できることは、私の児童生徒の指導結果から明らかである。

 このように、構造主義的類似性の哲学は、学問全般、および、学問に準ずる物事を記憶によらない、有機的に理解を深めるのに役立つものである。

 教育部門学習指導部について、お知りになりたい方で、お急ぎの方は、教育部門:学習指導部のページ内、(1)学習指導部の内容(指導料についての記述があります)、(2)教育部門等の要約(「勉強見ます Ver.6(ホームページ用にアレンジ)」、「勉強見ます Ver.3.5(ホームページ用にアレンジ)」)をご覧ください。また、御質問等がある方、あるいは、学習指導ご希望の方は、お問い合わせのページから御質問、あるいは、お申込み等をしてください。

お知らせ

     
  • 学習指導部、生徒募集用チラシVer.7.0,一部修正した上で掲載
  • 名称「Kaz 研究所」を「Kaz Lab(カズ・ラボ)」に改称
  • 「Kaz Lab について:(2) Kaz Lab 所長 自己紹介」内容を修正、「学問関係」、「語学関係」、「いじめ・嫌がらせ問題 等関係」を加筆
  • 「研究部門:哲学科」構造主義的類似性の哲学による勉強 1.試行錯誤の過程で使われる言葉 冒頭部分、修正
  • 「研究部門:分析心理学科」に、「困った人々」掲載(勉強ができるようにならない特別な場合について、いじめ・嫌がらせ問題などに関連して)
  • 「教育部門:学習指導部:(1)学習指導部の内容」を修正
  • 「教育部門:学習指導部:(1)学習指導部の内容」に、標準的なモデル別指導料を掲載,指導料について、わかりやすくなりました
  • 「教育部門:学習指導部:(2)教育部門等の要約」に、「とても勉強ができるようになります、これは事実です(勉強見ます Ver.6)」を掲載
  • 学習指導部、学習指導部の内容に、指導料金の詳細、指導プランを追加
  • 学習指導部、生徒募集用チラシVer.5.2とVer.3.4を削除
  • 学習指導部、生徒募集用チラシVer.5.8を一部省略し、改訂した上でVer.5.9(ホームページ用にアレンジ)として掲載
  • 学習指導部、生徒募集用チラシVer.3.4を一部省略し、改訂した上でVer.3.5(ホームページ用にアレンジ)として掲載
  • 名称「あすなろKZ研究所」から「Kaz 研究所」に改める
  • 学習指導部、生徒募集用チラシVer.5.2を一部省略した上で掲載
  • 学習指導部、生徒募集用チラシVer.3.4を一部省略した上で掲載
  • 学習指導部、生徒募集用チラシVer.4.2とVer.3.3を削除
  • 学習指導部、生徒募集用チラシVer.3.1を削除
  • 学習指導部、(3)指導形態を削除
  • 学習指導部、生徒募集用チラシVer.3.3、および、Ver.4.2掲載
  • 学習指導部、学習指導部の内容(指導形態、指導場所、指導対象、指導料など)について掲載
  • 学習指導部、生徒募集用チラシVer.3を削除
  • 生徒募集用チラシVer.3.1を、学習指導部に掲載
  • ホームページ 検索エンジンが参照するデータを書き換える
  • ホームページ 教育部門等の要約(当研究所周辺に配布している生徒募集用チラシ)を、学習指導部に掲載
  • ホームページ 正式運用開始
  • 名称「あすなろ研究所」から「あすなろKZ研究所」に改める
  • ホームページ 試用運用開始
  • 生徒募集用チラシVer.03配布開始、ホームページ開設予告
  • 生徒募集用チラシVer.02配布開始
  • あすなろ研究所正式発足
  • あすなろ研究所前生徒募集チラシ用ポスト設置
  • あすなろ研究所前看板掲示始める
  • 家庭教師、塾生徒募集用チラシ配布開始

ページの先頭に戻る