Kaz Lab 研究部門
哲学科 | 構造主義的類似性の哲学 |
素粒子物理学科 | 構造主義的類似性の哲学を通してみた新たな物質の世界 |
分析心理学科 | C.G.Jungの思想のより深い理解と構造主義的類似性の哲学を通して見た新たな精神の世界 |
還元主義を超えて(ホーリズムへの発展)
私は、長いこと、物理系の勉強をする傍ら、精神心理の勉強もしてきました。それは、私の周りの人間関係において、多くの人たちが、真実とはほど遠い事実誤認やそれに基づく思い込みをしている場合に多く接し、困惑を禁じ得なかったからです。また、このような事実誤認やそれに基づく思い込みから、悪意に満ちた中傷を受けたりひどい嫌がらせを受けた経験もあり、人間関係において、正しく事実を認識することの必要性を強く感じているからでもあります。
世の中には、一般的に常識と呼ばれるものがあります。こういう場合には、こういう見方、考え方が普通であるとされたり、こういう場合には、こういうことが起きるのが普通だされたりすることがあります。しかし、この常識とは異なることがあった場合、色々な問題が起こることになります。多くの場合、ほとんどの人は常識的立場に立ち、無批判に常識とは異なることを言ったりしたりした人と対立することになります。この場合、常識的観点からの分析はされても、真実どういうことがあったかを吟味されることは滅多にありません。しかし、常識とは異なることを言ったりしたりした人の事情や、この人と他の人との間にあったことなどを詳細に分析をすれば、常識とは異なることを言ったりしたりしたことが、その人にとって正当な理由を持って行われたことが明らかになるものなのです。このような場合、常識とは異なることを言ったりしたりした人との関係を持った人が、嘘をついていたり、あるいは、常識に反することをしていることが多いと考えられます。問題は、事情をよく知りもせずに常識的な観点から判断をして、常識とは異なることを言ったりしたりした人のことを、批判したり、仲間はずれにしたり、いじめや嫌がらせなどをすることです。これらのことをする人たちが、いかに必要にそして陰湿に深刻な害を加えるかは、まだ立場の弱い小学校、中学校、高等学校の児童生徒に見られるいじめの問題で、批判されたり、仲間はずれにされたり、いじめや嫌がらせをされたりした児童生徒が最悪の結果、自殺に追い込まれている場合に顕著に表れています。
私自身、東京理科大学に在籍中、1年生の時、同級生の一部に嘘を言いふらされ、批判の対象にされ、多くの同級生達から仲間はずれのようにされ、嫌がらせをされました。また、同大学卒業研究の時、所属研究室の教授と助手から嫌がらせを受け、それを見聞きした同級生の卒業研究生からも嫌がらせを受けた経験があります。
所属研究室の教授と助手からの嫌がらせの構図は単純です。私は3年生までに他の教授から極めて高い評価をもらっていました。所属研究室の教授と助手はその評価をされている内容が気にくわなく、私に嫌がらせをしてきたのです。私のやることなすことに因縁を付けてけなしてくるのです。嫌がらせをされて私はいい気はしません。その影響は私の言動にどうしても出てしまいます。すると、「大学に出てこない。」、「言うことを聞かない。」と言い、とさらにけなしたり文句を言われたりしました。卒業研究の内容に対しても、私とこの教授とでは、考え方が全く異なりました。私の言うことなど一切受け付けません。私は常識的対応が取れるはずはありません。結果、卒業研究を大学卒業の年の3月31日までさせられました。最終的に所属研究室の教授の言いたいことは、「すべて俺の言うことを聞け。」と言うことのようでした。
所属研究室の教授と助手のように、自分の方から相手に嫌な思いをさせておいて、その相手に自分が満足するようにすべて言うことを聞け、というのは乱暴な要求です。このような人間は、話し合いをしても嫌がらせをやめさせることはできず、この人間の人間性を変えることはできないでしょう。このような人間は、構造主義的類似性の哲学による徹底的な基礎的なところからの分析をして、分析の結果、自身に恥辱屈辱を感じ与えるまでしなければ、このような人間性は矯正できないと思われます。
また、同級生の卒業研究生からの嫌がらせは、1年生の時の同級生の一部に嘘を言いふらされた影響もありますが、所属研究室の教授と助手の私に対する言動を見てのことです。これは、マスコミにも良く取り上げられていますが、教員が児童生徒に対して不用意な注意をした結果、それがきっかけでいじめが始まるという、いじめの始まる典型的なパターンの一つに当てはまります。
私には、私の立場を支持する盤石な事実と数値に裏付けられた自信があったので、所属研究室の教授や助手の嫌がらせや同級生達の批判や嫌がらせなどはものともせず、「馬鹿な奴らだ。」としか思いませんでした。しかし、奴らを「馬鹿」と確実に確定できないものかと思いました。当時は、まだ、いじめや嫌がらせの問題が社会問題として新聞などに取り上げられていませんでした。私は、いじめや嫌がらせの問題は精神心理学の領域に関わっているものと考え、いじめや嫌がらせに関係したことが書かれている精神心理学の書籍を探しました。しかし、いじめや嫌がらせに関係した精神心理に関する書籍は見当たりませんでした。
現代の精神心理学では、基礎中の基礎である人間がどのように世界を認識するかについて扱っていません。人間が世界を認識していく中で、人間が自分自身をどのように認識するか、他の人間に関する事象をどのように認識するかといった問題についての徹底的な基礎的考察もせず、理論を作ったり探したりしています。人間の精神心理を考えていく上で、人間が自分自身をどのように認識するか、他の人間に関する事象をどのように認識するかということは、人間の精神心理を考えていく上で最も大切な基礎となることです。これらのことが元となって人間の精神心理状態が形成されることになるのです。現代の精神心理の科学は、人間以外の外界の世界に対して人間がどのような反応を示すかとか、人間以外の外界の世界を人間がどのようにとらえるかといったことや人間が自分自身をどのように認識するか、他の人間に関する事象をどのように認識するかといったことを含む、世界に対してどのように認識するかをすでに形成されてしまっている段階の人間に、アンケートなどの調査をし、それらを統計的に処理して研究をしているのがほとんどです。ですから、人間個人個人の精神心理の構造の深層には入り込めていないのです。心理学も精神医学も、人間という根本が分かっていないのです。いじめの問題で、学校に臨床心理士が配置されるようになっても、いじめの問題に改善の兆しが見られないのもその一つの証拠です。
私は生まれつき、ある常識が成り立たなく、ある常識とは正反対のことが起こる、いわゆる「個性」を持っています。従って、私は小さい頃から、常識で事象を見、考えることでは生活をつつがなく送ることができず、「私(わたくし)」を排した客観的でかつ絶対的な相対性を持った立場、視点から事象を捉え考えなければなりませんでした。ですから、「モジュール化された考え方」すなわち、常識では事象を見たり考えたりすることをせず、事象を常に細心の注意を払い観察をし、基礎的な認識を元に事象を組み立て直し認識をしてきました。そのため、人間がいかに自分勝手な立場から事象を見、その立場を絶対的に正しいとしている人間がいかに多いかがよく分かります。あることに関して、小学校から大学生まで友人だった者にも、この様な人間がいました。その背後にある心理には、自分自身をある面でたいそうな人間であるという自負がありました。ですから、この自分の自負が成り立たないような事象は、どんなに明らかなことでも否定してきました。しかし、その自負の裏付けとなっていることは、たった二つの事実に過ぎないことを私は知っていました。このような人間に常識的な議論を持ちかけてもこの友人の考え方を変えることはできませんでした。まるで糠に釘でした。この友人の考え方をやめさせるには、この友人のこの友人を支えている自負が根拠の薄弱なるもので、この友人がこの友人たるを支えているある面でたいそうな存在であることを否定しなければなりませんでした。すなわち、この友人に恥辱と屈辱を与えなければならなかったのです。しかし、それをすることは、この友人の今までの全存在を否定することになります。結論だけ言うと、私は、この友人と付き合う事はできなくなりました。
このように、私は、常識が通用しない世界で生きてきたため、事象を見たり考えたりするときには常識を用いないで過ごしてきました。その中で、自分の見方、考え方に凝り固まり、自分自身のことではないのに、他人のことにもかかわらず、勝手に決めてかかる人間を多く見てきました。そのため、私は、かねてから人間の精神心理の世界を多次元数理空間上に表現できないかと考えていました。そうすれば、間違った見方、考え方を数理空間上に明示でき、それが間違った考えであり、また、それが間違った考えである領域にあることを数式で示すことができるからです。
このように常識の成り立たない世界に生きながら思春期を過ごす中、私は大学受験を迎えました。私は受験勉強に関して、受験界の常識とは異なる勉強方法をとることにより、大変良い成績を上げることに成功しました。この「勉強方法」が後に構造主義的類似性の哲学で言う「特別なノウハウ」です。私は大学受験に際して、独自の「勉強方法」、「特別なノウハウ」を確立することができたのです。ここに、「勉強方法」と書きましたが、これは、「物事の見方、考え方」です。この「物事の見方、考え方」は、受験勉強だけでなく、徐々に、大学での勉強や一般に物事をする場合にも適用することができる事が分かってきました。また、この「特別なノウハウ」を児童生徒の学習指導に適用すると、従来の教育では勉強ができないとされている児童生徒が、皆、とても良い成績を取れるようになりました。このことから、「特別なノウハウ」は、私個人だけの経験に限るものではなく、一般の児童生徒にも有効な、単に「勉強方法」にとどまらず、普遍性を持った「「物事の見方、考え方」であることが分かってきました。
この「特別なノウハウ」の根底にある事象の見方、考え方、すなわち、事象をとらえる際、事象を基礎的なところから基礎的な見方、考え方によって、一から事象を再構成して認識して、それから、事象を基礎的なところから見、そして、基礎的な考えを用いて考える、と言うことが、宇宙の全存在を考える上での普遍的な「ノウハウ」ではないかと思うようになりました。この「見方」「考え方」は、私がそれまでしてきた世界を見、そして、考える方法、特に自分自身のことを認識したり、考えたり、または、他の人間のことを見たり考えたりするときに用いていた方法と根本的にはほとんど同じものであったのです。そこで、私は、この「特別なノウハウ」を敷衍し抽象化し、そして、一般化をして、構造主義的類似性の哲学を生み出すことになったのです。しかし、この構造主義的類似性の哲学は、まだ未完です。それは、まだ、精神心理の世界を多次元数理空間上に表現することができていないからです。
精神心理の世界の多次元数理空間上への表現化を模索している中、大学受験の段階で、既に多次元数理空間上に表現することに利用できると思われる、要素還元主義的な思想を持ちつつ、包括的な要素も併せ持つ Carl Gustav Jung の始めた分析心理学に出会い、勉強を進めていました。また、分析心理学は、精神心理の世界について因果律が成り立たない面についての論究があり、現代物理学が依拠している還元主義を超える理論の構築に資するものとして研究を続けています。多次元数理空間上に表現される精神心理の世界は、明らかに還元主義を超える理論の上に成り立つものです。ですから、分析心理学は、精神心理の世界の多次元数理空間上への表現を実現するのに、大変重要な位置を占めているのです。
また、同じく、大学受験の段階で、私は、物理を勉強する中で、物質の世界が、基本的な事柄と基礎的な考え方から成り立っており、この物質の世界が見事な体系をなしていることを知り強く惹かれました。その世界像の中では、究極の物質の構造が多次元数理空間を用いて表現されていることを知り、精神心理の世界と究極の物質の世界が類似性を持つのではないかとの考えから、究極の物質を扱う素粒子物理学を研究することにしたのです。
以上のような経緯から、当研究所は、還元主義からホーリズムへの発展を、私の経験から生み出した構造主義的類似性の哲学を用いて、究極の物質の世界の構造を扱う学問である素粒子物理学と、因果律が成り立たない精神心理の世界を扱う還元主義的な中に包括的要素も含んだ分析心理学を利用して、目指すものです。
詳しくこの学習指導のことについてお知りになりたい方は、教育部門のページ(日本の教育の現状と解決法)、教育部門学習指導部のページ(特別なノウハウの確立と指導形態)、教育部門教育学科のページ(特別なノウハウ)、研究部門哲学科のページ(構造主義的類似性の哲学による勉強)をご覧ください。お急ぎの方は、教育部門:学習指導部のページ内、(1)学習指導部の内容(指導料についての記述があります)、(2)教育部門等の要約(「勉強見ます Ver.6(ホームページ用にアレンジ)」、「勉強見ます Ver.3.5(ホームページ用にアレンジ)」)をご覧ください。また、学習指導ご希望の方は、お問い合わせのページからどうぞ。